伊豆、韮山から向かったのが、伊豆半島の先端下田。
下田港にはペリー艦隊の黒船サスケハナ号?が遊弋。
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黒船を模した遊覧船のようです。

1853年にペリーが来航、浦賀沖から江戸湾まで進出した彼らは日本に開国を迫った。
翌年幕府の返事を迫るため下田に寄港した。
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その現場を直接目にすることができて感無量。
吉田松陰が密航を企てたのもここであった。

ペリーの一行が通ったペリーロードを案内してくれる地元のボランティアの方に付いて歩く。
河津桜が一輪、
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日本初のプロ写真家下岡蓮杖の碑が高台に鎮座
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その高台を見上げる歩道に埋め込まれたレリーフ
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「写真を撮られると命が奪われる」と恐れた日本人。その理由は実際と写真は左右逆、着物が左前に写ることで死に装束に見えることからの発想という。

旧商家、右下の壁は伊豆石、虎の文様特徴。
壁を黒く塗っているのは太平洋戦争の影響。アメリカの爆撃機が首都圏の爆撃をしての帰り道、残った爆弾を本土の末端である下田に落としたという。
少しでも目立たないように壁を黒く塗った名残だという。
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映画の撮影にも登場したという下田の町並み、
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マンホール蓋にも黒船が、
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左が遊郭、右は伊豆石で作られた蔵。
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長楽寺、
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日露条約を締結した場所、
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ロシアのプチャーチンと幕府の川路聖謨(としあきら)がその折衝に当たった。
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1854年12月23日に起こった安政の大地震による津波は、このお寺へ登る石段の中途まで押し寄せた。
この津波によってプチャーチンのディアナ号も損害を受け、その後の大風によって沈没。西伊豆の戸田にて幕府の協力も得て新造船を作りやっとのことでロシアへ帰還できた話は有名。

昔ながらの狭い小路を抜けるとたどり着く了仙寺。
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小高い斜面に植えられたうばめ樫、紀州のうばめ樫は備長炭の原料になるが、この地も紀州と同じく温暖な気候。
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このお寺で締結された日米和親条約(下田条約)。
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この絵では境内が広く見えるが、実際はかなり狭い。
鎖国を続けてきた日本で、外国人は居留地の外へ出ることができなかった。長崎の出島がその象徴である。下田条約は、下田と函館を開港、また居留地(港)から7里までは行動自由とした。これが影響して反射炉も下田から韮山へ移さざるを得なかったのだ。

そんな幕末の推移を肌で感じながらの散策も面白い。
この日は下田から稲取温泉へ、「銀水荘」に泊まる。
豪華な夕餉、
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アワビや金目、刺身の和食からビーフシチュー、グラタンの洋食まで和洋混交、日米や日露の条約を締結した当地ならでは?