2026年04月
4月19日、今日が旅行の最終日。
壱岐の中部と北部を周って、フェリーで博多へ、そして新幹線と特急しなのを乗り継いで帰ります。
壱岐島荘に展示してあった壱州鬼凧。
その由来は、鬼ヶ島であった壱岐から鬼を追い払った伝説。
これが鬼凧。
まずは古墳巡り。
壱岐には長崎県の古墳423か所の実に60%、256か所の古墳があるそうです。
長崎県最大の前方後円墳、双六古墳。思わずホーッとため息が出るたおやかさ。
百合畑古墳群、この周りだけで6基の古墳があるそうです。
掛木古墳は
内部の玄室にも入れます。
壱岐最北端の勝本城址へ、城山を上ると、
目に飛び込んだのは御柱!?
何と諏訪市から壱岐への贈り物。
諏訪で生まれた松尾芭蕉の弟子河合曽良が壱岐で客死したとは知らなかった。
勝本城の大手門、
秀吉の大石垣、
文禄・慶長の役で秀吉の命をうけ建設された勝本城。
松浦、大村など九州大名によって1591年にわずか4か月で完成した城。
朝鮮出兵の兵站基地として使われた。
城址からの壱岐北端。
新城神社
文永の役で元軍に攻め込まれ、守護代の平景隆はこの神社の場所にあった樋詰城で自害した。
すぐ近くには文永の役の千人塚。
芦辺港周辺も元寇の主戦場。
少弐公園にはそれらの遺物も。
碇石、海底から引き揚げられた中世日本の大型外洋船のもの。
煙台。
中世の情報伝達には狼煙が使われた。元軍襲来の一報は対馬から壱岐へ、そして博多大宰府へと伝えられたのです。
壱岐神社
会いたかった! 少弐資時の墓。
講演の空には壱州鬼凧が! イベントがあるようです。
芦辺港でやっと見つけた少弐資時像、
本を読んで少弐氏を知り、旅行の最後で少弐資時に送ってもらえた旅でした。
フェリーちくしは船首が開いて車の積み込みができる。
博多へ戻る船の上がちょうど昼時、久しぶりにカップヌードルで腹を満たします。
壱岐の行程は
帰路は昼間なので島々が見えます。
玄海島
漢委奴国王の金印でお馴染みの志賀島
能古島
埠頭に着岸、その際の渦巻きは
サイドスラスタの効果でしょう。
大きい船を着岸させるには微妙な操作が必要ですが、この装置を使うことで横方向への細かい操作が可能になるのでしょう。
ちなみに夕食は特急しなのの車内で折尾名物東筑軒のかしわめし。
旅最後の美味しい駅弁でした。
3泊5日の全旅程は
でした。
壱岐の中部と北部を周って、フェリーで博多へ、そして新幹線と特急しなのを乗り継いで帰ります。
壱岐島荘に展示してあった壱州鬼凧。
その由来は、鬼ヶ島であった壱岐から鬼を追い払った伝説。
これが鬼凧。
まずは古墳巡り。
壱岐には長崎県の古墳423か所の実に60%、256か所の古墳があるそうです。
長崎県最大の前方後円墳、双六古墳。思わずホーッとため息が出るたおやかさ。
百合畑古墳群、この周りだけで6基の古墳があるそうです。
掛木古墳は
内部の玄室にも入れます。
壱岐最北端の勝本城址へ、城山を上ると、
目に飛び込んだのは御柱!?
何と諏訪市から壱岐への贈り物。
諏訪で生まれた松尾芭蕉の弟子河合曽良が壱岐で客死したとは知らなかった。
勝本城の大手門、
秀吉の大石垣、
文禄・慶長の役で秀吉の命をうけ建設された勝本城。
松浦、大村など九州大名によって1591年にわずか4か月で完成した城。
朝鮮出兵の兵站基地として使われた。
城址からの壱岐北端。
新城神社
文永の役で元軍に攻め込まれ、守護代の平景隆はこの神社の場所にあった樋詰城で自害した。
すぐ近くには文永の役の千人塚。
芦辺港周辺も元寇の主戦場。
少弐公園にはそれらの遺物も。
碇石、海底から引き揚げられた中世日本の大型外洋船のもの。
煙台。
中世の情報伝達には狼煙が使われた。元軍襲来の一報は対馬から壱岐へ、そして博多大宰府へと伝えられたのです。
壱岐神社
会いたかった! 少弐資時の墓。
講演の空には壱州鬼凧が! イベントがあるようです。
芦辺港でやっと見つけた少弐資時像、
本を読んで少弐氏を知り、旅行の最後で少弐資時に送ってもらえた旅でした。
フェリーちくしは船首が開いて車の積み込みができる。
博多へ戻る船の上がちょうど昼時、久しぶりにカップヌードルで腹を満たします。
壱岐の行程は
帰路は昼間なので島々が見えます。
玄海島
漢委奴国王の金印でお馴染みの志賀島
能古島
埠頭に着岸、その際の渦巻きは
サイドスラスタの効果でしょう。
大きい船を着岸させるには微妙な操作が必要ですが、この装置を使うことで横方向への細かい操作が可能になるのでしょう。
ちなみに夕食は特急しなのの車内で折尾名物東筑軒のかしわめし。
旅最後の美味しい駅弁でした。
3泊5日の全旅程は
でした。
4月18日はあいにくの雨、その中を県道39号線で海沿いを、
ツシマヤマネコが飛び出しそうな道を、
やっぱり出てくるのですね、気を付けないと。
対馬の公衆トイレで必ず目にする表示が
先日読んだ「アジアトイレ紀行」で、現在はだいぶ改善されたが、韓国のトイレは水圧が低かったり、ペーパーが水に溶けにくかったりという理由で、水洗トイレでも使用済みの紙を流してはいけないという習慣があるそうです。
また対馬では自動販売機の充実が目につきます。これもコンビニが少ないせい?
厳原ではローソンとファミマが1軒ずつありましたが、上対馬、中対馬では1軒も出合いませんでした。
対馬ふるさと伝承館は開館前で入れず、
16日に休館だった対馬博物館へ、
古墳時代の鉄刀
銅矛のレプリカを持ち上げてみましたが重いこと!
これだけ重いと武器としては使えませんね、司祭用だということも納得。
万葉集にも納められた遣唐使や遣新羅使の和歌にも西の漕手などを詠ったものが。
阿比留氏と神社
日本の中央と朝鮮の間に立って苦慮したり甘い蜜を吸ったりした宗氏の偽印外交。
日露戦争の対馬沖海戦で撃沈されたロシア軍の装甲巡洋艦ウラジミール・モノマフ号の乗組員を救助した際の聞き書き。
など興味深いものがたくさんありました。
お宝として持ち帰ったのが博物館でいただいたパンフレット。
これから読んで、もう一度対馬へ訪れる動機付けを養いたいと思います。
対馬最後の食事は対州そば、
対馬ふるさと伝承館に戻って、
そば道場美津島
私は迷わず郷土料理いりやきそば1300円、
奥さんは地元の野菜、賀佐ごぼう天そば1200円、
凄い! いりやきに使う鶏肉は親鳥、それも首など骨付きのままぶつ切り+モツも入っています。
レトルトのいりやきとろくべえもゲット!
忘れてならない名物がかす巻、カステラであんこを巻いたもの。
あずきとうぐいすあんの2種類、あずき餡のものを食べてしまってから気づきました。
二日半の対馬は走行距離829,1km。
レンタカーの人に「良く走りましたね!」
対馬の行程は
13:15発のジェットフオィルで壱岐の芦辺へ、フェリーの半分ほどの時間で行けます。45ノットものスピードで、舳先下と船尾に付いたフィンが船体を押し上げ、タービンエンジンの力で海水を後方へ吐き出して走ります。
芦辺ではレンタカー会社がお出迎え、軽の日産ディズに乗って最初に行ったのが
壱岐市立一支国博物館、
壱岐も古代文明の宝庫、
干アワビの加工が盛んだったようです。
首長らの古墳もあちこちに、
双六古墳からは中国北斎製の陶器。
注目が大陸との間をつないだ準構造船。
丸太をくり抜いた船から一歩脱皮して、くり抜いた丸太の上に波切、波除を設置した遠洋にも出られる船で、交易品を座面の下に格納できるようになっています。
石鎌、石包丁、
博物館と指呼の間にある原の辻復元公園
竪穴住居や倉庫、
物見の塔
そこから壱岐の最南端の初瀬へ、
次には西岸を周ります。
壱岐にはコンビニが豊富に存在、ここはローソン+ポプラ
猿岩の手前にあった黒崎砲台跡、東洋一。
並べられているのは、大きな方が戦艦大和の主砲弾(口径46cm)と、この砲台に使われていたという赤城の41cm砲弾のレプリカ。
中に入ってみますが10m程で通行禁止。
猿岩、確かに猿の横顔です。
今日の泊りは国民宿舎壱岐島荘、湯本温泉にあります。
夕飯には壱岐牛と新鮮な刺身が。
対馬からの航跡、海の上の航跡なので正確かどうかは分かりませんがおおよその見当は付きます。
そして壱岐島での旅程。
ツシマヤマネコが飛び出しそうな道を、
やっぱり出てくるのですね、気を付けないと。
対馬の公衆トイレで必ず目にする表示が
先日読んだ「アジアトイレ紀行」で、現在はだいぶ改善されたが、韓国のトイレは水圧が低かったり、ペーパーが水に溶けにくかったりという理由で、水洗トイレでも使用済みの紙を流してはいけないという習慣があるそうです。
また対馬では自動販売機の充実が目につきます。これもコンビニが少ないせい?
厳原ではローソンとファミマが1軒ずつありましたが、上対馬、中対馬では1軒も出合いませんでした。
対馬ふるさと伝承館は開館前で入れず、
16日に休館だった対馬博物館へ、
古墳時代の鉄刀
銅矛のレプリカを持ち上げてみましたが重いこと!
これだけ重いと武器としては使えませんね、司祭用だということも納得。
万葉集にも納められた遣唐使や遣新羅使の和歌にも西の漕手などを詠ったものが。
阿比留氏と神社
日本の中央と朝鮮の間に立って苦慮したり甘い蜜を吸ったりした宗氏の偽印外交。
日露戦争の対馬沖海戦で撃沈されたロシア軍の装甲巡洋艦ウラジミール・モノマフ号の乗組員を救助した際の聞き書き。
など興味深いものがたくさんありました。
お宝として持ち帰ったのが博物館でいただいたパンフレット。
これから読んで、もう一度対馬へ訪れる動機付けを養いたいと思います。
対馬最後の食事は対州そば、
対馬ふるさと伝承館に戻って、
そば道場美津島
私は迷わず郷土料理いりやきそば1300円、
奥さんは地元の野菜、賀佐ごぼう天そば1200円、
凄い! いりやきに使う鶏肉は親鳥、それも首など骨付きのままぶつ切り+モツも入っています。
レトルトのいりやきとろくべえもゲット!
忘れてならない名物がかす巻、カステラであんこを巻いたもの。
あずきとうぐいすあんの2種類、あずき餡のものを食べてしまってから気づきました。
二日半の対馬は走行距離829,1km。
レンタカーの人に「良く走りましたね!」
対馬の行程は
13:15発のジェットフオィルで壱岐の芦辺へ、フェリーの半分ほどの時間で行けます。45ノットものスピードで、舳先下と船尾に付いたフィンが船体を押し上げ、タービンエンジンの力で海水を後方へ吐き出して走ります。
芦辺ではレンタカー会社がお出迎え、軽の日産ディズに乗って最初に行ったのが
壱岐市立一支国博物館、
壱岐も古代文明の宝庫、
干アワビの加工が盛んだったようです。
首長らの古墳もあちこちに、
双六古墳からは中国北斎製の陶器。
注目が大陸との間をつないだ準構造船。
丸太をくり抜いた船から一歩脱皮して、くり抜いた丸太の上に波切、波除を設置した遠洋にも出られる船で、交易品を座面の下に格納できるようになっています。
石鎌、石包丁、
博物館と指呼の間にある原の辻復元公園
竪穴住居や倉庫、
物見の塔
そこから壱岐の最南端の初瀬へ、
次には西岸を周ります。
壱岐にはコンビニが豊富に存在、ここはローソン+ポプラ
猿岩の手前にあった黒崎砲台跡、東洋一。
並べられているのは、大きな方が戦艦大和の主砲弾(口径46cm)と、この砲台に使われていたという赤城の41cm砲弾のレプリカ。
中に入ってみますが10m程で通行禁止。
猿岩、確かに猿の横顔です。
今日の泊りは国民宿舎壱岐島荘、湯本温泉にあります。
夕飯には壱岐牛と新鮮な刺身が。
対馬からの航跡、海の上の航跡なので正確かどうかは分かりませんがおおよその見当は付きます。
そして壱岐島での旅程。
4月17日は曇天。
私の朝食はイングリッシュブレックファースト、奥さんは和食でした。
前回のブログのように、満潮を目指して西漕手と和多都美神社をまわり、
対馬では公衆トイレがどこにもあるわけではないこと、コンビニが極端に少ないことは昨日経験積みなので早めにトイレタイム。
神話の里自然公園に新しいトイレを発見。
豊玉町の烏帽子岳展望所へ。
韓国の観光客がバスで来ていました。
展望台からの浅茅湾、
峰町に入り峰町歴史民俗資料館へ、
弥生時代、朝鮮から来たもので対馬の国際性がうかがわれる。
梨地塗鞍。
ここで阿比留氏登場! 対馬と言えば宗氏の名が出てくるが、宗氏が支配する前の対馬は平安後期から阿比留氏の支配下にあり、現在でも阿比留という姓が対馬では一番多いということです。
切干切り機、
縄ない機、
ひくし(そば挽機)
対馬の国際性がうかがわれるベトナム陶器
高麗青磁
中国陶磁器
次に行ったのが上県町の目保呂ダム馬事公苑
対馬にも日本在来馬の対州馬が保存されていますが、ここでは乗馬体験もできるようです。
多分こちらが雌馬、まったりと大人しそう。
そして牡馬、鼻息が荒かった!
乗馬をするには事前予約が必要です。
路傍には見慣れない筒が林立、
対馬は日本ミツバチだけしか存在しないそうです。
それが対馬の誇りで、フェリーターミナルにも蜂洞が展示されていました。
お土産にも買った倭蜂(日本ミツバチ)の蜂王。
棹崎公園へ。
ここは岬になっていてツシマヤマネコが多く(とはいっても全島で100匹程度)保護区のようになっています。
対馬野生生物保護センター
残念ながらこの日は保護されている「かなた君」は体調不良で面会謝絶、
イエネコとの違いは耳が丸かったり、耳の裏が白いなど
以前訪ねたイリオモテヤマネコも100匹程度、系統も微妙に違っています。
虎耳状斑は共通しています。
人と鶏とツシマヤマネコの軋轢、人の生活と野生との矛盾点。
郷土料理いりやきもそんな軋轢の中にいます。
棹崎の先端まで登ってみます。
棹崎砲台位置経路図、
ここにも国境の島の現実が、砲台観測所の内部。
地下壕入り口、
砲台跡、
日本最北西端の碑と灯台、
これで日本の最西端、最南端、最北端と最北西端を踏破!
次には対馬の北端へ行きますが、その前に腹ごしらえ。
ごはん処あび米、農家の庭先にあった素朴だがちょっとお洒落なレストラン。
ここの女性オーナーも阿比留姓だとか、皆さん阿比留という名に誇りを持っているようです。
私は対馬名物とんちゃんのセット1300円、
甘辛いたれで豚の肩ロースを焼いた対馬北部のソウルフードです。
岐阜の御嵩にもとんちゃんがありますが、こちらは味噌味豚のホルモン、滋賀県の高島にもあるようですがそれは私も未体験です。
いずれも朝鮮文化が生きています。
ちなみに奥さんは焼カレーセット1300円。
最北端、上対馬町の韓国展望所。
韓国釜山まで49,5km、
航空自衛隊海栗島分屯基地。
豊砲台跡にも行きたかったのですが土砂崩落で車両は入れません、尾根道を歩けば1km程なので行って見ましょう。
しばらく行くと右足元でガサガサッと、その直後私の前を5頭ほどの鹿が右から左へと横切っていきました。
ここも国境の島を感じさせる防衛庁の境界石、
なおも突き進んでいきますが、
アレッ! 岬の先端に来てしまいました。
豊砲台跡を見過ごしてしまったようです。
仕方なく引き返し、金網に囲われた場所を発見。
豊砲台跡
ここに口径40cm、巡洋戦艦赤城の主砲と同じ規模の砲台が睨みを利かしていました。
砲塔の内部などにも入れるという案内がありましたが、雨も降ってきたので敗退。
対馬には砲台跡が31か所もあるそうです、さながら不沈戦艦。
古代の白村江の戦いから日清日露戦争そして太平洋戦争まで国境の第一線を担ってきた島の歴史です。
宿は比田勝港ですが、その前にわが社のお客さんの対馬工場へ立ち寄り、
アジやサバの処理をしている工場なので、トビやミサゴ、カラスなどが群れを成しています。
比田勝港国際ターミナル
宿は梅屋ホテル、
宿近くの地元スーパータケスエで、
白嶽の清酒とヤマネコ?の焼酎。
重くなるので不要な衣類などと宅急便で送りましたが、クロネコの人たちが厳重に梱包し、一つも割れずに無事届きました。(私が1週間日にちを間違ったので届いたのは27日でしたが)
ホテルの隣、みなと寿しでゆっくり美味しいものを。
かんぱちの胡麻和え、お漬物。
握りはマグロも含めて近海産(海老は違うか?)
穴キュウーは最高! これには感動しました!
他にも数種いただきましたが技も味も大満足でした。
この日は中対馬から上対馬北端まで
豊砲台跡の道迷いはこんな感じでした。
私の朝食はイングリッシュブレックファースト、奥さんは和食でした。
前回のブログのように、満潮を目指して西漕手と和多都美神社をまわり、
対馬では公衆トイレがどこにもあるわけではないこと、コンビニが極端に少ないことは昨日経験積みなので早めにトイレタイム。
神話の里自然公園に新しいトイレを発見。
豊玉町の烏帽子岳展望所へ。
韓国の観光客がバスで来ていました。
展望台からの浅茅湾、
峰町に入り峰町歴史民俗資料館へ、
弥生時代、朝鮮から来たもので対馬の国際性がうかがわれる。
梨地塗鞍。
ここで阿比留氏登場! 対馬と言えば宗氏の名が出てくるが、宗氏が支配する前の対馬は平安後期から阿比留氏の支配下にあり、現在でも阿比留という姓が対馬では一番多いということです。
切干切り機、
縄ない機、
ひくし(そば挽機)
対馬の国際性がうかがわれるベトナム陶器
高麗青磁
中国陶磁器
次に行ったのが上県町の目保呂ダム馬事公苑
対馬にも日本在来馬の対州馬が保存されていますが、ここでは乗馬体験もできるようです。
多分こちらが雌馬、まったりと大人しそう。
そして牡馬、鼻息が荒かった!
乗馬をするには事前予約が必要です。
路傍には見慣れない筒が林立、
対馬は日本ミツバチだけしか存在しないそうです。
それが対馬の誇りで、フェリーターミナルにも蜂洞が展示されていました。
お土産にも買った倭蜂(日本ミツバチ)の蜂王。
棹崎公園へ。
ここは岬になっていてツシマヤマネコが多く(とはいっても全島で100匹程度)保護区のようになっています。
対馬野生生物保護センター
残念ながらこの日は保護されている「かなた君」は体調不良で面会謝絶、
イエネコとの違いは耳が丸かったり、耳の裏が白いなど
以前訪ねたイリオモテヤマネコも100匹程度、系統も微妙に違っています。
虎耳状斑は共通しています。
人と鶏とツシマヤマネコの軋轢、人の生活と野生との矛盾点。
郷土料理いりやきもそんな軋轢の中にいます。
棹崎の先端まで登ってみます。
棹崎砲台位置経路図、
ここにも国境の島の現実が、砲台観測所の内部。
地下壕入り口、
砲台跡、
日本最北西端の碑と灯台、
これで日本の最西端、最南端、最北端と最北西端を踏破!
次には対馬の北端へ行きますが、その前に腹ごしらえ。
ごはん処あび米、農家の庭先にあった素朴だがちょっとお洒落なレストラン。
ここの女性オーナーも阿比留姓だとか、皆さん阿比留という名に誇りを持っているようです。
私は対馬名物とんちゃんのセット1300円、
甘辛いたれで豚の肩ロースを焼いた対馬北部のソウルフードです。
岐阜の御嵩にもとんちゃんがありますが、こちらは味噌味豚のホルモン、滋賀県の高島にもあるようですがそれは私も未体験です。
いずれも朝鮮文化が生きています。
ちなみに奥さんは焼カレーセット1300円。
最北端、上対馬町の韓国展望所。
韓国釜山まで49,5km、
航空自衛隊海栗島分屯基地。
豊砲台跡にも行きたかったのですが土砂崩落で車両は入れません、尾根道を歩けば1km程なので行って見ましょう。
しばらく行くと右足元でガサガサッと、その直後私の前を5頭ほどの鹿が右から左へと横切っていきました。
ここも国境の島を感じさせる防衛庁の境界石、
なおも突き進んでいきますが、
アレッ! 岬の先端に来てしまいました。
豊砲台跡を見過ごしてしまったようです。
仕方なく引き返し、金網に囲われた場所を発見。
豊砲台跡
ここに口径40cm、巡洋戦艦赤城の主砲と同じ規模の砲台が睨みを利かしていました。
砲塔の内部などにも入れるという案内がありましたが、雨も降ってきたので敗退。
対馬には砲台跡が31か所もあるそうです、さながら不沈戦艦。
古代の白村江の戦いから日清日露戦争そして太平洋戦争まで国境の第一線を担ってきた島の歴史です。
宿は比田勝港ですが、その前にわが社のお客さんの対馬工場へ立ち寄り、
アジやサバの処理をしている工場なので、トビやミサゴ、カラスなどが群れを成しています。
比田勝港国際ターミナル
宿は梅屋ホテル、
宿近くの地元スーパータケスエで、
白嶽の清酒とヤマネコ?の焼酎。
重くなるので不要な衣類などと宅急便で送りましたが、クロネコの人たちが厳重に梱包し、一つも割れずに無事届きました。(私が1週間日にちを間違ったので届いたのは27日でしたが)
ホテルの隣、みなと寿しでゆっくり美味しいものを。
かんぱちの胡麻和え、お漬物。
握りはマグロも含めて近海産(海老は違うか?)
穴キュウーは最高! これには感動しました!
他にも数種いただきましたが技も味も大満足でした。
この日は中対馬から上対馬北端まで
豊砲台跡の道迷いはこんな感じでした。
今年になってからの旅は私の単独行のみ。
そろそろ同居人からの不満も感じてきたので、二人で同行できる企画を考えねばということで決めた行き先が対馬と壱岐。
なぜ韓国に近い離島まで行くのか?
基本、私の旅は長野県から車で行きたいというもの。でもそうすると彼女を旅の起点地まで半日以上助手席に縛り付けることになります。それを解消するために飛行機や船を活用できまいかと考えたのが第一。
二番目は下記の本を読んだから。
一つは「少弐」
少弐氏は大宰府などを治めていた九州の守護で、元寇の役から室町時代を通じての一族の歴史です。
そして「襲来」
日蓮の勧めで対馬などに出向き、元寇の被害や元軍の動向を直に見聞きした漁師が主人公。
私は今まで元寇とは大宰府など北九州周辺に元軍が押し寄せ、世に伝えられてきた「神風」によって壊滅し日本侵略を断念したという認識しかありませんでしたが、その前後で対馬や壱岐に甚大な被害を与えてきたことを初めて知りました。
物語の中の少弐資時は壱岐で、宗助国は対馬で元軍と戦って壮烈な討ち死にを遂げています。また対馬の主は宗氏の前に阿比留氏がいたことも。
4月15日あいにくの雨空ながら、松本空港発17:45のFDAで福岡まで飛んで、
翌朝0:05博多港発のフェリーちくしまで時間があるので博多駅周辺で
宮崎料理とじとっこヒナタノ蔵で腹ごしらえ、
博多ポートタワーを目指し、
博多ふ頭第2ターミナルから
九州郵船のフェリーちくしに乗り込みました。
この時点で日が変わり4月16日となり、壱岐を経由して対馬の厳原まで4時間40分。
博多港を後にします。
2等指定席は14人分の枕が並べてある準大部屋、でも今回はそこに3人のみ。
艦内に掲示してあった国際信号旗は面白い。
たとえばAの旗の意味は「私は潜水夫を降ろしている、微速で十分避けよ」
揺れない船の秘密としてフインスタビライザが船底に付いているようですが、
博多⇒壱岐の玄界灘壱岐水道2時間では横揺れが、
壱岐港で乗客を降ろし、
その後の対馬海峡、東水道の2時間では縦揺れに悩まされて、ほとんど睡眠がとれませんでした。
フィンスタビライザが着装されているはずなのに何で?
フェリーの中で休息でき、一泊分のホテル代が助かるかな? との思惑も出発時点で狂いました。
しかし少し助かったのは4:45には対馬の厳原に着岸した後7:00までは部屋で寝ていられること。
7:00に下船、
レンタカー営業所へ行く際に目にしたのが、
珠丸遭難者慰霊塔。終戦直後の昭和20年10月14日、対馬海峡で旧日本海軍が設置した機雷に触れて爆沈したというものです。
昭和29年に台風で沈没した青函連絡船の洞爺丸の1155人の犠牲者に次ぐ犠牲を出した海難事故ですが、私も含めて知らなかった人がほとんどでしょう!
そしてやはり国境の島「密航、密漁、密貿易」も身近な場所なんですね。
ガソリンスタンドがレンタカーの営業所も兼務、
借りたのはトヨタのPASSO、これで明日の昼まで対馬の島を周ります。
最初は下対馬豆酘方面に行きますが、
まずは腹ごしらえ。
聞いたところ朝食を摂れる飲食店は無し。ファミマでハンバーガーやおにぎりを購入し、金石城址で朝食タイム。
事前調査では、対馬は山また山の地形で、壱岐は平坦な土地柄と認識していましたが、その通り山また山。
海が見えないところでは、以前行った会津、越後県境を彷彿とさせるような山肌を県道24号線がくねっています。
豆酘へ行く主要道から旧来の道を内院方面へ、
海岸沿いに走るこの道は狭隘部も多くトンネルも交互通行、幅2,8mでは対向車が来たら無理はできません。
迷いながらも豆酘湾が見えてきました。
豆酘漁港
ここまでトイレがなくて難渋していましたが、埋もれ木の蔵というギャラリーがあったのでトイレを拝借。
流木などをアートとして活用している芸術家ですが、明治時代の対馬の地図や、
手回しのミシンなどにも目が行きました。
観覧料300円のところ二人で500円をやっと受け取ってくれました。
ここから海岸沿いを北上して小茂田浜へ抜けたいところですが、だいぶ難路でナビも厳原を迂回して小茂田へ行く道しか示しません。
どうせなので厳原の旧対馬藩主の宗氏菩提寺=万松院を訪ねることに。
宗氏は日本と朝鮮の間を取り持つ重要な役割を果たしましたが、朝鮮国王から奉納された万松院の三具足。
宗家墓所への石段を登り、
万松院の大杉、
そして上御霊屋
宗氏の第十九代で初代対馬藩主の宗義智の墓所などが林立しています。
宗義智は秀吉が進めた文禄・慶長の役の際、日本(秀吉)と朝鮮の間に立ってとても苦労をした人ですが、関ケ原では西軍についていたが家康に許されて、日本と朝鮮の国交回復に尽力した人です。
家康も宗氏(対馬)の重要性を重く見ていたのでしょう。
県道44号を小茂田へ、
椎根の石屋根倉庫。この建物は大正15年のものだそうです。
平たく剥離するこの地の板石を使った倉庫で、穀類や生活用品を保管するものですが、冬季の強い北西の季節風や雨から守る生活の知恵からの生まれたものです。
入母屋屋根の積み上げ、
近所には石屋根から瓦屋根に改良された建物も。
元寇の古戦場佐須浦、
1274年10月5日、3万の蒙古軍が襲来し、翌日八十余騎の劣勢で立ち向かった宗助国(御年64歳)は討ち死にした。
元軍の軍船が着岸したであろう小茂田浜。
小茂田浜神社には元寇襲来の650年、700年、750年の記念碑が。
島の西海岸から東海岸の美津島町鶏知へ。
昼食は肴やえん。
私は丸徳鯖の刺身定食1200円、玄界灘で獲れた鯖を畜養した身もプリプリの旨い鯖!
奥さんは対馬名産のあなご重定食2200円、ふっくらで鰻に勝る味。
ここからが対馬最狭部、東水道と浅茅湾をつなぐ運河が掘られました。
1672年に対馬藩によって掘られた大船越瀬戸、
その先には1900年、日本帝国海軍によって掘られたより広い万関瀬戸、
1905年の日露戦争の日本海海戦ではこの瀬戸を水雷艇部隊が出撃した。
これは翌朝、万関展望台から見た万関瀬戸。
そのさらに北には西の漕手(西越出)、ここはさらに歴史が古い。遣唐使や遣新羅使も通ったという説もあるそうです。
上記2本の運河が掘られる前は、150mほどしかないこの地峡を、小さな船なら担いで(船越)、大きな船の場合は積み荷を運搬して東西の海を結んでいました。
ちょうどこの時(午後1時)は干潮、潮が引いて底が出ている。
満潮の時間を調べたところ、今の時期は8:30頃という情報を得て翌朝8:30に来た時には潮が満ちていました。
漕手の先端に作られた江戸期の船着場。
この坂を抜けて地峡の反対側に出ると小船越に出ます。
小船越の波止場。
和多都美神社。わたつみとは海神という字も当てるようで、字の通り海の神様ですね。
脇にある三柱鳥居。宇宙の中心や三方向の神社を遙拝する意味をもつらしいです。
ここも翌朝9:00に再訪しましたが、
満潮時の方が有難味が高まりますね。
神事に使う御船。
前夜からの強行軍に疲れた奥さんを早めに対馬グランドホテルに送り届け、
私は次の目的地へ、阿連方面県道24号線。
金田城址へ、
車1台がギリギリ、
数台が駐車できるだけの駐車場に車を置いて、
15;30を過ぎ、だんだん暗くなってきた坂道を登ります。
突然の眺望! 浅茅湾を一望のもとに。
東南角城塁
南門跡、
を過ぎて東屋へ。そこにいたお兄さんに聞くと、ここから道は二股に。
私は二の城戸、一の城戸が見たかったので右の道へ行くと、道はどんどん下り坂、それも劇坂。
時間も時間だし、水も持って行かなかった私はどんどん不安に駆られます。
結局そこからすごすごと撤退しました。
次回対馬へ来るときがあったら絶対登頂するぞ!
愛車が見えた時は心底ホッ!としました。
宿に戻りひと風呂浴びてからの夕食は、
新鮮な刺身や、右上は郷土料理のいりやき。
地鶏や魚介、特産の椎茸や野菜の入った鍋料理。
だしが無くなるまで炒るのでいりやきだとか。
最後に素麺を入れるそうですが、だしが無くなったら素麺も焦げちゃわない?
今回はお目にかからなかったのですがろくべえという郷土料理もあるそうです。
ホテルから見える玄界灘、それを背景にしたチャペルも良いですね。
博多からの航路、
対馬の島内を今日はこれだけ周りました。
そろそろ同居人からの不満も感じてきたので、二人で同行できる企画を考えねばということで決めた行き先が対馬と壱岐。
なぜ韓国に近い離島まで行くのか?
基本、私の旅は長野県から車で行きたいというもの。でもそうすると彼女を旅の起点地まで半日以上助手席に縛り付けることになります。それを解消するために飛行機や船を活用できまいかと考えたのが第一。
二番目は下記の本を読んだから。
一つは「少弐」
少弐氏は大宰府などを治めていた九州の守護で、元寇の役から室町時代を通じての一族の歴史です。
そして「襲来」
日蓮の勧めで対馬などに出向き、元寇の被害や元軍の動向を直に見聞きした漁師が主人公。
私は今まで元寇とは大宰府など北九州周辺に元軍が押し寄せ、世に伝えられてきた「神風」によって壊滅し日本侵略を断念したという認識しかありませんでしたが、その前後で対馬や壱岐に甚大な被害を与えてきたことを初めて知りました。
物語の中の少弐資時は壱岐で、宗助国は対馬で元軍と戦って壮烈な討ち死にを遂げています。また対馬の主は宗氏の前に阿比留氏がいたことも。
4月15日あいにくの雨空ながら、松本空港発17:45のFDAで福岡まで飛んで、
翌朝0:05博多港発のフェリーちくしまで時間があるので博多駅周辺で
宮崎料理とじとっこヒナタノ蔵で腹ごしらえ、
博多ポートタワーを目指し、
博多ふ頭第2ターミナルから
九州郵船のフェリーちくしに乗り込みました。
この時点で日が変わり4月16日となり、壱岐を経由して対馬の厳原まで4時間40分。
博多港を後にします。
2等指定席は14人分の枕が並べてある準大部屋、でも今回はそこに3人のみ。
艦内に掲示してあった国際信号旗は面白い。
たとえばAの旗の意味は「私は潜水夫を降ろしている、微速で十分避けよ」
揺れない船の秘密としてフインスタビライザが船底に付いているようですが、
博多⇒壱岐の玄界灘壱岐水道2時間では横揺れが、
壱岐港で乗客を降ろし、
その後の対馬海峡、東水道の2時間では縦揺れに悩まされて、ほとんど睡眠がとれませんでした。
フィンスタビライザが着装されているはずなのに何で?
フェリーの中で休息でき、一泊分のホテル代が助かるかな? との思惑も出発時点で狂いました。
しかし少し助かったのは4:45には対馬の厳原に着岸した後7:00までは部屋で寝ていられること。
7:00に下船、
レンタカー営業所へ行く際に目にしたのが、
珠丸遭難者慰霊塔。終戦直後の昭和20年10月14日、対馬海峡で旧日本海軍が設置した機雷に触れて爆沈したというものです。
昭和29年に台風で沈没した青函連絡船の洞爺丸の1155人の犠牲者に次ぐ犠牲を出した海難事故ですが、私も含めて知らなかった人がほとんどでしょう!
そしてやはり国境の島「密航、密漁、密貿易」も身近な場所なんですね。
ガソリンスタンドがレンタカーの営業所も兼務、
借りたのはトヨタのPASSO、これで明日の昼まで対馬の島を周ります。
最初は下対馬豆酘方面に行きますが、
まずは腹ごしらえ。
聞いたところ朝食を摂れる飲食店は無し。ファミマでハンバーガーやおにぎりを購入し、金石城址で朝食タイム。
事前調査では、対馬は山また山の地形で、壱岐は平坦な土地柄と認識していましたが、その通り山また山。
海が見えないところでは、以前行った会津、越後県境を彷彿とさせるような山肌を県道24号線がくねっています。
豆酘へ行く主要道から旧来の道を内院方面へ、
海岸沿いに走るこの道は狭隘部も多くトンネルも交互通行、幅2,8mでは対向車が来たら無理はできません。
迷いながらも豆酘湾が見えてきました。
豆酘漁港
ここまでトイレがなくて難渋していましたが、埋もれ木の蔵というギャラリーがあったのでトイレを拝借。
流木などをアートとして活用している芸術家ですが、明治時代の対馬の地図や、
手回しのミシンなどにも目が行きました。
観覧料300円のところ二人で500円をやっと受け取ってくれました。
ここから海岸沿いを北上して小茂田浜へ抜けたいところですが、だいぶ難路でナビも厳原を迂回して小茂田へ行く道しか示しません。
どうせなので厳原の旧対馬藩主の宗氏菩提寺=万松院を訪ねることに。
宗氏は日本と朝鮮の間を取り持つ重要な役割を果たしましたが、朝鮮国王から奉納された万松院の三具足。
宗家墓所への石段を登り、
万松院の大杉、
そして上御霊屋
宗氏の第十九代で初代対馬藩主の宗義智の墓所などが林立しています。
宗義智は秀吉が進めた文禄・慶長の役の際、日本(秀吉)と朝鮮の間に立ってとても苦労をした人ですが、関ケ原では西軍についていたが家康に許されて、日本と朝鮮の国交回復に尽力した人です。
家康も宗氏(対馬)の重要性を重く見ていたのでしょう。
県道44号を小茂田へ、
椎根の石屋根倉庫。この建物は大正15年のものだそうです。
平たく剥離するこの地の板石を使った倉庫で、穀類や生活用品を保管するものですが、冬季の強い北西の季節風や雨から守る生活の知恵からの生まれたものです。
入母屋屋根の積み上げ、
近所には石屋根から瓦屋根に改良された建物も。
元寇の古戦場佐須浦、
1274年10月5日、3万の蒙古軍が襲来し、翌日八十余騎の劣勢で立ち向かった宗助国(御年64歳)は討ち死にした。
元軍の軍船が着岸したであろう小茂田浜。
小茂田浜神社には元寇襲来の650年、700年、750年の記念碑が。
島の西海岸から東海岸の美津島町鶏知へ。
昼食は肴やえん。
私は丸徳鯖の刺身定食1200円、玄界灘で獲れた鯖を畜養した身もプリプリの旨い鯖!
奥さんは対馬名産のあなご重定食2200円、ふっくらで鰻に勝る味。
ここからが対馬最狭部、東水道と浅茅湾をつなぐ運河が掘られました。
1672年に対馬藩によって掘られた大船越瀬戸、
その先には1900年、日本帝国海軍によって掘られたより広い万関瀬戸、
1905年の日露戦争の日本海海戦ではこの瀬戸を水雷艇部隊が出撃した。
これは翌朝、万関展望台から見た万関瀬戸。
そのさらに北には西の漕手(西越出)、ここはさらに歴史が古い。遣唐使や遣新羅使も通ったという説もあるそうです。
上記2本の運河が掘られる前は、150mほどしかないこの地峡を、小さな船なら担いで(船越)、大きな船の場合は積み荷を運搬して東西の海を結んでいました。
ちょうどこの時(午後1時)は干潮、潮が引いて底が出ている。
満潮の時間を調べたところ、今の時期は8:30頃という情報を得て翌朝8:30に来た時には潮が満ちていました。
漕手の先端に作られた江戸期の船着場。
この坂を抜けて地峡の反対側に出ると小船越に出ます。
小船越の波止場。
和多都美神社。わたつみとは海神という字も当てるようで、字の通り海の神様ですね。
脇にある三柱鳥居。宇宙の中心や三方向の神社を遙拝する意味をもつらしいです。
ここも翌朝9:00に再訪しましたが、
満潮時の方が有難味が高まりますね。
神事に使う御船。
前夜からの強行軍に疲れた奥さんを早めに対馬グランドホテルに送り届け、
私は次の目的地へ、阿連方面県道24号線。
金田城址へ、
車1台がギリギリ、
数台が駐車できるだけの駐車場に車を置いて、
15;30を過ぎ、だんだん暗くなってきた坂道を登ります。
突然の眺望! 浅茅湾を一望のもとに。
東南角城塁
南門跡、
を過ぎて東屋へ。そこにいたお兄さんに聞くと、ここから道は二股に。
私は二の城戸、一の城戸が見たかったので右の道へ行くと、道はどんどん下り坂、それも劇坂。
時間も時間だし、水も持って行かなかった私はどんどん不安に駆られます。
結局そこからすごすごと撤退しました。
次回対馬へ来るときがあったら絶対登頂するぞ!
愛車が見えた時は心底ホッ!としました。
宿に戻りひと風呂浴びてからの夕食は、
新鮮な刺身や、右上は郷土料理のいりやき。
地鶏や魚介、特産の椎茸や野菜の入った鍋料理。
だしが無くなるまで炒るのでいりやきだとか。
最後に素麺を入れるそうですが、だしが無くなったら素麺も焦げちゃわない?
今回はお目にかからなかったのですがろくべえという郷土料理もあるそうです。
ホテルから見える玄界灘、それを背景にしたチャペルも良いですね。
博多からの航路、
対馬の島内を今日はこれだけ周りました。
プロフィール
hongokeiniku
カテゴリ別アーカイブ
タグクラウド
QRコード
















































































































































































































