2月11日、この日は新城隣の駅=野田城駅を探すことから始めます。
野田の信号を発見
そこから隘路をぐるぐる回りやっと野田城駅を発見!
ナビの案内で探すのは簡単ですが、旅の醍醐味はやはり紙の地図と首っ引きで取り組むことですね。
駅の公衆便所に地図は出ています。
野田城跡、大野田城跡と駅の位置関係は地図で分かりますが、方角が分からない、どちらへ行こうか?
駅のホームの向こう側はヨコハマタイヤの大きな工場です。それを目印に探しましょう。
踏切に案内が、
どうやらあれが大野田城跡のようです。
ということは飯田線をはさんだ反対側に野田城跡はあるはず、あそこのようです。
ここを右折して上っていきます。
路傍にあっけなく案内が出現。
その歴史
ここから入れそうです。
昨日の設楽城のほうが整備が行き届いていますね。
伊那街道の文字が。
昨晩調べたところ、昨日たどってきた県道10号線が伊那街道と判明しました、何たる偶然の一致。
本丸跡
野だ城址碑
ありました!
信玄公狙撃場所。
三方ヶ原の合戦の後、武田軍はこの野田城を包囲しました。
その折、場内から流れて来る笛の音に誘われて信玄が出てきたところをここから狙撃、それが原因で信玄は伊那駒場で没したという伝説です。
昨日の設楽原歴史資料館にあった信玄砲というのがそれか?
井戸の跡、信玄は甲斐の金山の金堀人夫を動員して野田城の水の手を切ろうとしたということです。
三の曲輪跡
二の曲輪跡
堀切
三日月堀跡
など往時の特徴が分かって面白い。
立札に案内パンフレットが欲しい方は近くの新城モータースへ、とありました。
アジャ~! 日曜日で休み? 10分後、幸いなことにそこの社員の方がちょうど出社。
めでたくパンフレットいただきました。
残念だったのは、あとでパンフレットを読んで分かったことですが、城外西側に信玄被弾の地があったこと。探してみればよかった!
位置からしても距離にしてもうなずける場所です。
その後設楽ヶ原を再見分、国道257号線を設楽町へ、
しかしここで通行止め、しかたなく鳳来寺山麓を迂回して
道の駅したら、奥三河郷土館が併設されています。
ここにも森林鉄道の歴史がありました、森林鉄道段戸山線。
田口鉄道という立派な鉄道もあったようです。
そしてここにも鳥屋場の伝統も!
そのジオラマ。山の尾根沿いに切り開き、
カスミ網を張り巡らし、囮の小鳥をさえずらせて飛んでくる同種の小鳥を絡めとる猟法です。
郷土館の主館は有料、300円を払って入りました。
古くからの衣食住から歴史、地質、産業など興味深い品々が要領よく展示されていましたが、残念ながら撮影禁止。時間があればじっくりと見て回りたいところです。
田峯菅沼氏興亡紀、200円也を購入。
ここ設楽は山家三方衆の根拠地、昨日の長篠城も今日の野田城もその一族です。
巨大な武田と徳川に挟まれ、一族でも争いをしながら生き抜いてきた人々です。
城跡も多数存在、それらを巡って歩くだけでも楽しそうです。
屋外には出店が、「したら町の五平餅」をアピール!
ここはくるみタレの「つぐや」というお店、ちょうど昼時なので五平餅と分厚いヒレカツサンド、それにサービスで頂いた「したらの水」。この水は設楽町の水道水を缶に封入したもの。
県道10号線を伊那街道へ
ここは直進
伊那街道を無事通り抜け津具の街へ、でもここからは昨日着た道で楽しくありません。フッと見れば稲武へ抜ける道がありました。
稲武から根羽村へと迂回しても良さそうです。杉並木の山道を行くと
面ノ木峠を越え
無事稲武へ着きました。
そして何回もここまでは来たな、という景色の長野県境へ
そうです、根羽には中馬街道があった。ここから杣路峠にも行ったっけ。
伊那街道を走った実感とすれば、野田城で撃たれた信玄も、設楽ヶ原で惨敗した勝頼もこの街道、そしてこの峠を通って信州へ敗残の姿を運んだのかもしれません。
2日間の走行距離は484km。たいした距離ではありませんが、戦国歴史の一端を垣間見られた旅でした。
野田の信号を発見
そこから隘路をぐるぐる回りやっと野田城駅を発見!
ナビの案内で探すのは簡単ですが、旅の醍醐味はやはり紙の地図と首っ引きで取り組むことですね。
駅の公衆便所に地図は出ています。
野田城跡、大野田城跡と駅の位置関係は地図で分かりますが、方角が分からない、どちらへ行こうか?
駅のホームの向こう側はヨコハマタイヤの大きな工場です。それを目印に探しましょう。
踏切に案内が、
どうやらあれが大野田城跡のようです。
ということは飯田線をはさんだ反対側に野田城跡はあるはず、あそこのようです。
ここを右折して上っていきます。
路傍にあっけなく案内が出現。
その歴史
ここから入れそうです。
昨日の設楽城のほうが整備が行き届いていますね。
伊那街道の文字が。
昨晩調べたところ、昨日たどってきた県道10号線が伊那街道と判明しました、何たる偶然の一致。
本丸跡
野だ城址碑
ありました!
信玄公狙撃場所。
三方ヶ原の合戦の後、武田軍はこの野田城を包囲しました。
その折、場内から流れて来る笛の音に誘われて信玄が出てきたところをここから狙撃、それが原因で信玄は伊那駒場で没したという伝説です。
昨日の設楽原歴史資料館にあった信玄砲というのがそれか?
井戸の跡、信玄は甲斐の金山の金堀人夫を動員して野田城の水の手を切ろうとしたということです。
三の曲輪跡
二の曲輪跡
堀切
三日月堀跡
など往時の特徴が分かって面白い。
立札に案内パンフレットが欲しい方は近くの新城モータースへ、とありました。
アジャ~! 日曜日で休み? 10分後、幸いなことにそこの社員の方がちょうど出社。
めでたくパンフレットいただきました。
残念だったのは、あとでパンフレットを読んで分かったことですが、城外西側に信玄被弾の地があったこと。探してみればよかった!
位置からしても距離にしてもうなずける場所です。
その後設楽ヶ原を再見分、国道257号線を設楽町へ、
しかしここで通行止め、しかたなく鳳来寺山麓を迂回して
道の駅したら、奥三河郷土館が併設されています。
ここにも森林鉄道の歴史がありました、森林鉄道段戸山線。
田口鉄道という立派な鉄道もあったようです。
そしてここにも鳥屋場の伝統も!
そのジオラマ。山の尾根沿いに切り開き、
カスミ網を張り巡らし、囮の小鳥をさえずらせて飛んでくる同種の小鳥を絡めとる猟法です。
郷土館の主館は有料、300円を払って入りました。
古くからの衣食住から歴史、地質、産業など興味深い品々が要領よく展示されていましたが、残念ながら撮影禁止。時間があればじっくりと見て回りたいところです。
田峯菅沼氏興亡紀、200円也を購入。
ここ設楽は山家三方衆の根拠地、昨日の長篠城も今日の野田城もその一族です。
巨大な武田と徳川に挟まれ、一族でも争いをしながら生き抜いてきた人々です。
城跡も多数存在、それらを巡って歩くだけでも楽しそうです。
屋外には出店が、「したら町の五平餅」をアピール!
ここはくるみタレの「つぐや」というお店、ちょうど昼時なので五平餅と分厚いヒレカツサンド、それにサービスで頂いた「したらの水」。この水は設楽町の水道水を缶に封入したもの。
県道10号線を伊那街道へ
ここは直進
伊那街道を無事通り抜け津具の街へ、でもここからは昨日着た道で楽しくありません。フッと見れば稲武へ抜ける道がありました。
稲武から根羽村へと迂回しても良さそうです。杉並木の山道を行くと
面ノ木峠を越え
無事稲武へ着きました。
そして何回もここまでは来たな、という景色の長野県境へ
そうです、根羽には中馬街道があった。ここから杣路峠にも行ったっけ。
伊那街道を走った実感とすれば、野田城で撃たれた信玄も、設楽ヶ原で惨敗した勝頼もこの街道、そしてこの峠を通って信州へ敗残の姿を運んだのかもしれません。
2日間の走行距離は484km。たいした距離ではありませんが、戦国歴史の一端を垣間見られた旅でした。