図書館で何気なく取った新刊本「日本の旅人 菅江真澄」
菅江真澄とは江戸度中期に東北から蝦夷地を遊歴し、その時代の文物を後世に残した民俗学の先駆けになった人。
この本で菅江と信州の思いがけない縁を知りました。
東北へ旅立つ直前の天明3年(1783)から1年余りを、私の身近の塩尻の本洗馬を拠点として信濃各地に足を延ばしました。
本洗馬で住居としたのが釜井庵
紅葉が見事でした。
この釜井庵の左側の軒先を描いたのが
この絵、七夕の風景らしいのですが、菅江と同じ風景を見ているというだけで充実感です。
本洗馬歴史の資料館が釜井庵に隣接してあります。
そこには菅江の信濃遊覧記
そして興味深かったのがこの絵
水戸天狗党の小説を読んだのはつい半月前、
その和田峠での戦いを描いたものが!
みごとに描かれています。これを描いたのは菅江の60年ほど後に諏訪で生まれた俳人の岩波其残、
元治元年11月20日、この日其残は和田峠の藪の中に潜んで天狗党と松本藩、諏訪高島藩との戦闘を実際に見て描いていたといいます。 今でいえば戦場カメラマン!
釜井庵の庭先から妙義山城という、武田氏に滅ぼされるまでこの地を支配した三村氏の城跡もあります。
ここから登れますが
塩尻ではこの頃熊の出没が相次いでいますので私も止めておきます。
釜井庵の近くには、洗馬焼和平の窯元や
立派なお寺ですね
長興寺などを巡ったのち
本洗馬から小曾部へ、観音路隧道を抜けます。
今の時代には珍しい片側通行、車幅ギリギリ!結構気を使いながら抜けます。
後でわかったことですが、この隧道は心霊スポットらしい、そんな雰囲気を漂わせる不気味さがあります。
小曾部は塩尻の奥地の洗馬のもっと奥、小曽部川に沿って上流を目指します。
地図上に峠は見受けられないので峠越えは叶わないようですが、行けるところまで行こう!
集落を抜けてかなり突っ込みます。
落ち葉に覆われた林道を上っていくと
白滝入り口、
小曽部川も渓流に姿を変えます。
さらに行くと
からたきの峯登山口、腹もすいたのでここで引き返します。
今日の腹は蕎麦気分、
洗馬の芳香庵みのるにて昼食。
天然キノコそば(中盛)1800円也、コウタケも入っていて香ります。
を食べて体を温めて帰路に着きました。
菅江真澄とは江戸度中期に東北から蝦夷地を遊歴し、その時代の文物を後世に残した民俗学の先駆けになった人。
この本で菅江と信州の思いがけない縁を知りました。
東北へ旅立つ直前の天明3年(1783)から1年余りを、私の身近の塩尻の本洗馬を拠点として信濃各地に足を延ばしました。
本洗馬で住居としたのが釜井庵
紅葉が見事でした。
この釜井庵の左側の軒先を描いたのが
この絵、七夕の風景らしいのですが、菅江と同じ風景を見ているというだけで充実感です。
本洗馬歴史の資料館が釜井庵に隣接してあります。
そこには菅江の信濃遊覧記
そして興味深かったのがこの絵
水戸天狗党の小説を読んだのはつい半月前、
その和田峠での戦いを描いたものが!
みごとに描かれています。これを描いたのは菅江の60年ほど後に諏訪で生まれた俳人の岩波其残、
元治元年11月20日、この日其残は和田峠の藪の中に潜んで天狗党と松本藩、諏訪高島藩との戦闘を実際に見て描いていたといいます。 今でいえば戦場カメラマン!
釜井庵の庭先から妙義山城という、武田氏に滅ぼされるまでこの地を支配した三村氏の城跡もあります。
ここから登れますが
塩尻ではこの頃熊の出没が相次いでいますので私も止めておきます。
釜井庵の近くには、洗馬焼和平の窯元や
立派なお寺ですね
長興寺などを巡ったのち
本洗馬から小曾部へ、観音路隧道を抜けます。
今の時代には珍しい片側通行、車幅ギリギリ!結構気を使いながら抜けます。
後でわかったことですが、この隧道は心霊スポットらしい、そんな雰囲気を漂わせる不気味さがあります。
小曾部は塩尻の奥地の洗馬のもっと奥、小曽部川に沿って上流を目指します。
地図上に峠は見受けられないので峠越えは叶わないようですが、行けるところまで行こう!
集落を抜けてかなり突っ込みます。
落ち葉に覆われた林道を上っていくと
白滝入り口、
小曽部川も渓流に姿を変えます。
さらに行くと
からたきの峯登山口、腹もすいたのでここで引き返します。
今日の腹は蕎麦気分、
洗馬の芳香庵みのるにて昼食。
天然キノコそば(中盛)1800円也、コウタケも入っていて香ります。
を食べて体を温めて帰路に着きました。