2020年01月

沼津にて

1月23日、稲取温泉からスタートです。
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旅館で記念撮影、この日は沼津経由で帰京。

沼津にある沼津御用邸記念公園を見学しました。
今まで知らなかったのですが、ここは明治~昭和の間、77年間にわたって天皇陛下を始め皇族の方々が利用した施設です。
あいにくの雨の中、西附属邸の見学です。
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ここが西附属邸正面玄関
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こんな配置になっています。
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興味のあるのは厨房。
天皇の料理番=故秋山徳蔵氏もここで活躍したそうです。
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木製の冷蔵庫、懐かしいですね。電気でなく氷を入れて冷やします。
火事を出すことは一大事、大きな火を使う場合は別棟煉瓦造りの湯沸所で行い、ここでは炭火の小さなかまどを使うくらいだった、風呂のお湯も湯沸所で沸かし、50m程を人力で運んで風呂に入れたそうです。
手前にあるのがすのこのスロープ、手押し車や二人で持ち運ぶふね ↓
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で料理を運搬しました。

昭和天皇がお好きだったオートミール、茄子の酪焼き
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元気の源ピーナッツ
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そして生涯にわたって毎月末日にお食べになった日本そば
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食器には菊の御紋が
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そして食事を配膳する供進所
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食堂
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御座所
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寝室
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トイレは古い和式と洋式が、
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男子トイレ、水洗便所でした!
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御玉突所(ビリヤード)もあります。
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戦前の電話ボックス
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ポータブルラジオ
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電気掃除機もありました。
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窓越しに外を眺めると
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ガラスが微妙に歪んでいます。このガラスも当時のドイツ製、これも御用邸の売り物です。

沼津魚市場で昼食をとり、朝霧高原を越えて家路につきました。








伊豆、下田にて

伊豆、韮山から向かったのが、伊豆半島の先端下田。
下田港にはペリー艦隊の黒船サスケハナ号?が遊弋。
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黒船を模した遊覧船のようです。

1853年にペリーが来航、浦賀沖から江戸湾まで進出した彼らは日本に開国を迫った。
翌年幕府の返事を迫るため下田に寄港した。
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その現場を直接目にすることができて感無量。
吉田松陰が密航を企てたのもここであった。

ペリーの一行が通ったペリーロードを案内してくれる地元のボランティアの方に付いて歩く。
河津桜が一輪、
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日本初のプロ写真家下岡蓮杖の碑が高台に鎮座
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その高台を見上げる歩道に埋め込まれたレリーフ
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「写真を撮られると命が奪われる」と恐れた日本人。その理由は実際と写真は左右逆、着物が左前に写ることで死に装束に見えることからの発想という。

旧商家、右下の壁は伊豆石、虎の文様特徴。
壁を黒く塗っているのは太平洋戦争の影響。アメリカの爆撃機が首都圏の爆撃をしての帰り道、残った爆弾を本土の末端である下田に落としたという。
少しでも目立たないように壁を黒く塗った名残だという。
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映画の撮影にも登場したという下田の町並み、
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マンホール蓋にも黒船が、
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左が遊郭、右は伊豆石で作られた蔵。
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長楽寺、
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日露条約を締結した場所、
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ロシアのプチャーチンと幕府の川路聖謨(としあきら)がその折衝に当たった。
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1854年12月23日に起こった安政の大地震による津波は、このお寺へ登る石段の中途まで押し寄せた。
この津波によってプチャーチンのディアナ号も損害を受け、その後の大風によって沈没。西伊豆の戸田にて幕府の協力も得て新造船を作りやっとのことでロシアへ帰還できた話は有名。

昔ながらの狭い小路を抜けるとたどり着く了仙寺。
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小高い斜面に植えられたうばめ樫、紀州のうばめ樫は備長炭の原料になるが、この地も紀州と同じく温暖な気候。
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このお寺で締結された日米和親条約(下田条約)。
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この絵では境内が広く見えるが、実際はかなり狭い。
鎖国を続けてきた日本で、外国人は居留地の外へ出ることができなかった。長崎の出島がその象徴である。下田条約は、下田と函館を開港、また居留地(港)から7里までは行動自由とした。これが影響して反射炉も下田から韮山へ移さざるを得なかったのだ。

そんな幕末の推移を肌で感じながらの散策も面白い。
この日は下田から稲取温泉へ、「銀水荘」に泊まる。
豪華な夕餉、
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アワビや金目、刺身の和食からビーフシチュー、グラタンの洋食まで和洋混交、日米や日露の条約を締結した当地ならでは?









伊豆、韮山にて

1月22~23日にかけて伊豆旅行です。
会社のある卸売団地組合の3回目の団体旅行。大型バスに17名と添乗員さん。ゆったりと朝から缶ビールを飲みながら向かいます。

昼に着いたのが世界遺産(明治日本の産業革命遺産)韮山反射炉。
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反射炉の手前、立像が韮山代官、江川太郎左衛門英龍(担庵)、幕末を代表する行政官です。

ここが昼食場所、牛、豚、鶏そして鰺の開きのバーべキューと地ビールで腹を満たしただけで時間いっぱい。
反射炉や江川太郎左衛門を深堀したかった私にはちょっと惜しかった。

ということで復習です。

1840年の中国アヘン戦争、そして1853年にペリー来航を受けて、幕府もついに海防体制の強化に乗り出さざるを得なくなりました。
そこで、以前から様々な進言をしてきた江川を責任者として、大砲製造に不可欠な反射炉や品川台場の建設が始まりました。
反射炉は当初、海に近い下田に建造され始めました。しかし1854年にペリーが下田に再訪し、そこで取り決められた下田条約で、外国人が下田から7里の範囲なら国内に立ち入ることが承認されたことで、海兵などが建設現場に立ち寄るなどのトラブルが起きたため、内陸の韮山へ移ることとなりました。

1850年以降の国内8エリア、23資産が、西洋から非西洋への産業化の波及を顕わし代表する「明治日本の産業革命遺産」として2015年に世界遺産に登録されました。
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なぜ反射炉というのか?
反射炉とは、17~18世紀にかけてヨーロッパで発達した金属を融かす溶解炉で、内部の天井がドーム状になった炉本体と煉瓦積みの高い煙突からなっています。
石炭などを燃料にして、炉内の天井で熱を反射し、一点に集中させることで千数百度の高温を発し、金属を融かすものでしたので、反射炉と言われました。
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江川太郎左衛門英龍
江川は江戸幕府の韮山代官、韮山代官は伊豆、駿河、相模、甲斐、武蔵にある幕府直轄地の支配をする行政官です。
かれは早くから蘭学を学び、外国からの海防を唱え、幕府に対しても様々な進言をしていました。
信州松代藩の佐久間象山にも影響を与えています。
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幕末の英雄というと薩長土肥の人々が挙げられますが、幕府側にも先を見越した英才がいたのです。

鶏の処理

1月21日、信大農学部のアニマルウェルフエアに配慮した鶏舎が完成し、第1次の試験飼育の鶏を処理、解体しました。

東御のとや原ファームに昨年できた処理場へ出かけました。
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鶏種はチャンキー、今日の処理は34羽です。

命を頂戴する場面は割愛しますが、放血した鶏を60数度のお湯に漬けて
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脱羽機で羽を除去、
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羽が無くなった鶏を洗浄し
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内臓を抜きます
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それを消毒、冷やしこんで
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十分に冷えたところで解体、
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そんな一連の作業を見守ることで、処理⇒解体のプロセスが理解できます。

今では一日に10万羽の鶏を処理するオートメーションの処理場も登場していますが、昔ながらの手作業による処理は大変です。
私は午前中だけで帰ってきましたが、午後も解体の作業が続きます。
ここでは3人で一日に20~30羽の処理をしているそうですが、そんな数でも処理だけでなく、飼育や営業もするのですからかなりの作業量になります。

写真のように衛生的できれいな処理場です、これからも頑張って続けてください。


とんだ災難

時は1月14日夕方、友人が経営している保険会社で。
二階で会議をするので、いつものように階段を元気に駆け上って行ったはよいが、スリッパが脱げかけて、アッ!という間に着地したのが私の頭。
不幸なことに、寒いからといってポケットに手を突っ込んでいたため瞬時の手つきができません。
階段の角に打ち付け、パックリ切れたおでこから鮮血がポタリポタリ。
洗面所をお借りして処置、バッグの中にはこんなこともあろうかと大判の絆創膏も常備していたので応急処置。
しばらく平気でしたが、そのうちにジワッーと眉毛に違和感が。

これでは持たない、会議を中座し相澤病院の緊急外来へ行く羽目になりました。

CTを受けたら脳内は異常なし、外科の先生に縫合してもらいました。
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丁寧に七針縫ってもらってとりあえずOK.

次の日に再診してもらったところ無事癒着、風呂で傷を洗っても良いそうです。
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24日に抜糸してもらい
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きれいな?おでこに戻りました。

(教訓)
①若いと思っても、微妙な足の上げ下げに老いが現れる。
②階段は走っての昇降をしない。
③手はいつでもフリーに、ポケットに手を突っ込まない。
④バイクでのケガも考えて、絆創膏以外にガーゼとテープを常備する。

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