2012年02月

悲劇の発動機『誉』

私の車好き=エンジン(発動機)好き、という志向で、図書館から借りてきていたく感激した本を紹介します。

『悲劇の発動機『誉』天才設計者中川良一の苦闘』
悲劇の発動機

誰もが知っている零戦、
零戦,栄

そのエンジンは『栄』と言いました。
栄エンジン

昭和15年に正式採用された零戦は日中戦争で華々しいデビューを飾り、真珠湾攻撃でも目覚しい活躍をしました。
しかし日本の軍部中枢は、零戦だけでは戦争は戦い抜けないことを認識していました。これからの戦争は零戦の
1000馬力程度の栄エンジンでは絶対的な力量不足、2000馬力級のエンジンが必要と思い開発を中島飛行機に命じていました。

そのエンジンの設計を任されたのが東大を出たばかりの若い技術者=中川良一でした。
その頃の日本の実力は、欧米の発動機の技術を真似するところからやっと脱皮したばかり、そこで中川は『欧米に追いつき追い越せ』とばかりアイデアを振り絞って先駆的なエンジンを設計します。
そして出来上がったのが『誉』
誉エンジン

栄より少し大きいだけで倍の2000馬力を実現してしまいます。

しかしそれは試験運転でのこと。ところが軍部の中枢はそれに狂喜してしまいます。
ちょうどその頃、日本は真珠湾を攻撃してアメリカに対する戦争を開始してしまいます。
軍部も後には引けません、誉を使うことを前提にした零戦の後継機を続々と計画してしまいます。

たとえば紫電改、
紫電改

それ以外に、陸軍、海軍共に疾風、烈風など多くの機種を三菱や中島飛行機へ押し付けます。

本来エンジンの開発は5~10年、機体でも2~5年の期間がかかります。アメリカとの開戦によって、高性能を出すために必要な高オクタン価のガソリンやオイル、高精度な工作機械の輸入、日本では製造できない材料が途絶します。その上飛行機会社の技術者が無計画に兵隊に取られ、製造に従事するのは未経験の素人や学徒に代わります。

そのような中で誉は製造されますが、規定どおりの性能が発揮できないばかりか不具合、故障が頻発し、飛行中エンジンが止まることでの墜落、殉職も多発、エンジンの無い機体が野ざらしになります。

結局終戦までこの混乱は収まらず敗戦となりました。

この本を読んで、戦争中の混乱がもたらした悲劇と言うよりも、我々日本人が陥りやすい、私も陥りやすい思考回路に気づきました。

良いもの、高性能なものを追求する我々は、そのことばかりに目が行って、実際に作ってみてどうなのか? 実際に作れるのか? を、設計開発する段階から計画の中に入れているか? 
『良いものを作れば勝てる(売れる)!』という考えだけでは駄目なことを教えてくれます。

今の時代の変化、環境の変化をどのように捉え、克服すべき課題、果たすべき役割を抽出し、その中で一番良い道を全力で歩む、それは今の時代に最も心がけなければいけないテーマではないでしょうか。

懐かしの愛車

私が何よりも好きなもの、それは自動車とバイク。
子供の頃、虚弱体質で喘息持ち、運動も嫌いだった、もちろん走ることが大の苦手。
そんな私は早いものにあこがれていました。
小学生の頃は馬、馬の絵ばかり書いていました。

高学年から中学にかけては車やバイク、飛行機に興味が移りました。
中学2年頃、HONDAが世界のF-1グランプリに打って出ます。それが車好きの私にとっての決定打になりました。
フェラーリやロータス、BRMなど世界の競合がひしめくグランプリの世界に名も無い東洋のバイクメーカーが挑んだ勇気に私も奮い立ちました。それから50年近く、私の趣味は変わっていません、進歩が無いということか?

私の高校時代は大型バイク免許が比較的楽に取れました、ヘルメットも被る義務はありません。
高校2年の時、バイトの金を貯めて2万円也の中古125ccバイク(ホンダCL125)を買いました。
その1年後に発売されたのがこれ、
CB

HONDA CB-450 日本の市販車で始めてのDOHC(ダブルオーバーヘッドカムシャフト)を備えた、まさにグランプリレーサーのような迫力ある名車です。
私もこのバイクが欲しい! と夢にまで思ったものです。

そのバイクと出会ったのが6~7年前、ちっぽけなバイク屋の廃車置場の廃バイクの山からリアフェンダーとテールランプがちょこっとのぞいていました。
それを見ただけで私の体に電流が走りました。思わず駆け寄り確かめました。間違いない! 直ちに店主と交渉、車検を取ったうえで6万円で交渉成立です。

納車を心待ちに、そしてそのCB450が届きます。懐かしい音で快調に回るエンジン、近くを走って得意絶頂でした。
ところが翌日にはエンジンがウンともスンとも言いません。
それからが地獄です。40年も前のバイクなので保証などありません、松本ばかりか甲府の修理屋さんまで行って、少し良くなっても2~3回乗るともうダウン。

そんなことを繰り返して、昨年春に決意したのが『この愛車を手放して、一発でエンジンがかかるバイクにしよう!』でした。
HONDAが良いことは決まっていましたが、選んだのがこれ、
スーパーカブ

スーパーカブ110、これで今年も林道走破頑張るぞ!

新聞記事から

毎日

昨日付けの毎日新聞1面記事に、東日本大震災の影響で東北3県の鶏が437万羽死ぬ! という大きな見出しの記事が掲載されました。

この写真で読めるかどうか?分かりませんがアップします。
毎日記事


2面にも関連記事が、
2面記事


私とすれば、何をいまさら、という感じもします。
昨年の3月東北大震災の直後から、わが社最大の仕入先である岩手県からの鶏肉納入が6月までの約3ヵ月大幅に滞りました。最初の1ヶ月半は1gの鶏肉も入ってきませんでした。
その間は鶏肉を集めるためにとても苦労しました。無理やり集めるために高いことを承知で買わなければならない、お客様に穴を開けて不便をかけないために必死の努力をしたことを思い出します。

しかし、この記事を読んで、私たち鶏肉業界の様々な矛盾も浮き彫りになっています。
昨年3月、大震災の直後には鶏の処理場が震災の直接的な被害で稼動できませんでした。しかし懸命の努力で殆んどの処理場は1週間くらいで復旧しました。
大きな問題は、鶏に餌を供給する飼料コンビナートが八戸などの湾岸沿いにあったのでそこが津波の被害から復旧しないと鶏に餌を供給できないというところにありました。
そこの復旧が大幅に遅れ、餌を絶たれた鶏が次々に死んでいったのです。

毎日新聞の記事は卵を産む産卵鶏の事を中心に書いていますが、私たちが使う肉用鶏にも大きな被害が出たのです。

記事にも書かれていますが、この災害であぶりだされた事は、
①今までの半世紀、消費者物価は6倍になったが、鶏肉、鶏卵は半世紀前と同じか、より以上に価格が下がっ  ている=物価の優等生と言われる所以です。その間、鶏業界は規模を大きく拡大し、機械化を推し進めること でコストダウンに努 めてきました。しかしそれは九州や東北地方の他産業が育ちにくい地域に集中したので  す。

②養鶏に関る最大コストは餌代です。安い餌を確保するには輸入に頼らざるを得ません。産地に隣接した港湾 に大きな飼料コンビナートを作り、外国から直接飼料を引くことが有利だったのです。

③養鶏場も大規模になると毎日の餌の量だけでも馬鹿になりません。そこで養鶏場は『トヨタの看板方式』に習  ってその日に必要な餌を毎日運ばせるようになりました。そうすると数日の間餌が滞るだけで鶏に給餌するこ  とが不可能になってしまい餓死に至ります。
このようなことが今回のわれらの業界の中であったのです。

原子力に依存したエネルギー政策や遅々として進まない被災地復興への批判も紙面を賑わせていますが、大規模化、寡占化と海外依存の鶏肉業界の矛盾も大きな問題をはらんでいます。

山賊焼を地域の名物に! という運動も、山賊焼が有名になれば良いと言うだけではなく、山賊焼をきっかけに地元の養鶏業振興や処理場の建設、そこからの地域循環の仕組みづくりまで繋がっていくことが必要です。

展示会

1月後半から2月にかけては新年の展示会が目白押し。わが社でも東京などへ出かけて見て廻ります。
今日のブログは日本ハムの展示会から。わが社からは7名が参加しました。
日ハム展示会

会場はビックサイトです。この展示会は誰でも入れるわけではないので警備員がチェックしています。松本からは3社だけだったようです。

日ハム会場

広い会場にはハムやソーセージ、肉はもちろん魚介類、チーズ、パンなど日本ハムの関連会社が全て揃っています。会場の中央部は商談スペース、私たちも3時間以上、日本ハム5部門の担当と商談しました。

この時期の展示会は新しい商品のプレゼンテーションが盛んです。しかしここ数年の不況期はどこも目先の変わった商品は展示しません。わが社の専門分野『惣菜』を見ても売れ筋の基本商品ばかりです。
日ハム惣菜


今は売れ筋商品の磨き上げが主流です。たとえば豚カツ、厚切りのボリューム感ある商品が展示してあります。
とんかつ

酢豚も黒酢を使ったたれで和えてあります。
酢豚

このように定番商品をより美味しくというトレンドです。

わが社でも豚カツや酢豚を作っています。日本ハムがこれらの惣菜に取り組み始めたのは10数年前、わが社が始めてからは25年くらいになります。そんな意味ではわが社の方が先駆者、しかしこの業界はコピーされるのが早い業界、大手企業の物量戦略にはかないません。
しかし我々には我々の戦略があります。この会場で偶然お会いしたわが社のお客様の社長さん曰く、『日本ハムの商品はどこのスーパーにも売り込む、しかし本郷の商品は我が店でしか売っていない、これが貴重なんだよ。そして本郷の方が美味しいよ』と、日本ハムの重役さんを前に宣言してくれました。嬉しい限りです。

わが社の専門分野の鶏肉で目を引くものが、
日ハム種鶏

種鶏=たねどりではありません、しゅけいと言います。耳慣れない名前ですがこれは親鳥のこと、ブロイラーのお母さんです。
お母さんなのでブロイラーよりは長い年月飼育しています。そのため肉質は硬くなりますが味が乗って美味しくもなります。この展示会では牛筋と同じようにおでん材料としての提案がありました。焼き鳥にしても美味しくいただけます。
このように普段目に触れないものが展示されているのも興味深いです。

三十七回忌

昨日は母方のおばあちゃんの三十七回忌で東京に行ってきました。

法事の会場は中野の宝仙寺、1400年代室町時代に建立された真言宗のお寺です。
宝仙寺

東京にしては広い境内には三重塔もあります。
宝仙寺石碑


三重塔手前には池があります。
石臼塚

その池の由来を読んでみると、
石臼塚由来

昔の中野坂上界隈は蕎麦の集積地だったそうです。そこには蕎麦を挽く業者が集まって繁盛していたと言うことです。しかし、蕎麦挽きも機械化の並が押し寄せ石臼が不要になりたくさん捨てられたそうです。このお寺の住職さんがもったいないと思い、石臼の塚を作り、その回りが池にされたそうな。
このお寺では待合室の廊下に大きな臼で作られた椅子とテーブルも置いてあります。これも小さな穴が開いた臼としては使えなくなった臼の有効利用だと思いました。
こんなところにもお寺の精神が宿っていることを強く感じました。


本題の三十七回忌のことです。
三十三回忌で終わるのが普通だと言われる故人を偲ぶ法要ですが、今回は異例の三十七回忌、ここまでしてくれた母の本家 I 家に感謝の限りです。
母の本家では戦前から鶏肉屋をしており、戦後母が松本へ嫁いできて、鶏肉屋を始めたのも本家のお陰でした。いわば本郷鶏肉のルーツも I 家に有るわけです。
わが社の前社長(母)が亡くなり、昨年五年祭を行いましたが、私が母の三十七回忌をする時は92歳になってしまいますし、とてもそこまで生きてはいないでしょう。
そんなことを考えると三十七回忌を執行してくれた母の本家の偉大さが身にしみてきます。

法要のあと、中野サンプラザの最上階での会食、そして久しぶりに本家へ行きました。
本家は鶏肉屋をやめて今は居酒屋を営んでいます。居酒屋だけにお酒はふんだんにあります。今まで飲んだことが無い焼酎を頂きました。
ハイリキ

これ絶品、焼酎に炭酸が既に入っています。レモン以外にプレーンもあり、シークヮーサーで割るといくらでも飲めます。
昨年からのマイブーム=ホッピー+金宮焼酎(三重県の宮崎本店謹製)に匹敵する後引き焼酎でした。
本家では赤羽にある、まるます家総本店http://r.tabelog.com/tokyo/A1323/A132305/13003778/ というディープな居酒屋も紹介してくれました。今度東京へ行ったら寄ってみよう。
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